SHORT COLUMN
ショートコラム
甘夏のはじまり 第3章_流れるプール
甘夏のはじまり
この夏、ウェブエイトのメンバーが交代で綴るショートストーリーをはじめます。
台本やルールはありません。
登場人物も、物語りの舞台も、自由自在。
このあと、どう展開するかも、その人次第です。
決まっているのは、「甘夏のはじまり」というタイトルのみ。
第三章は一転、涼サイドのお話で始まります。
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「人生は流れるプールのように、勝手に流れていくものなのだから」
受験勉強の時に深夜ラジオで聴いた言葉が、さくっと心臓の深いところに刺さって抜けなくなってしまった。
何か帰路に立たされた時、ふとこの言葉が頭をよぎる。
決断しないということではない。「より違和感のない方へ」進むことにしているのだ。
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私、立花涼は都内のIT企業でエンジニアとして働いている。
給料は良い方だと思うが、ハードワーク。好きでなければ続けられない。
年に一度まとまった休みを取っては旅行に出かけるのが、社会人になってからの1番の楽しみになっている。
今回は松本を選んだ。
時間の流れを感じられる場所を訪れるのが好きで、
歴史的な建造物…特にお城を中心に海外も含めて色々な場所を巡っている。
そんなふうにして松本を訪れ、あの日甘夏さんに出会った。
小さい頃家族で一度来たことがあった松本城。
思えばあの時の感動が、お城にハマるきっかけになったのかもしれない。
2度目のそれは、記憶の中そのままで、北アルプスの山々を従え
白と黒のコントラストが美しい天守はやはり圧巻だった。
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『本日は定休日です』
そう書かれたプレートと睨めっこしながら、少しの間涼は呆然と雨に打たれていた。
そうか、定休日だったのか…。
がっかりしながらプレートを恨めしそうに見つめる。
甘夏さんと会うのを楽しみにしていたのに。
「あー…今日は休みだったか…」
のんびりした声で、独り言とも話しかけているとも言えるくらいの声が降ってきた。
不意に雨粒を肌に感じなくなり、声のする方に目をやる。
雨の当たらない空間をさりげなく半分差し出した手が目に入った。
見上げると、くまのように大きくて、ぼんやり眠そうな表情の男性。
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甘夏さんに出会った次の日に、私はくまさんに出会った。
花咲く森の道ではなく、雨の降る松本で。
くまさんは松本が地元らしく、相合傘をしたまま、違う喫茶店へ連れて行ってくれた。
くまさんは、良くも悪くもマイペース。あまり話し上手ではないと思う。
私も話を聞くタイプなので、主導権を握る人はいない。
でも、沈黙が続いても気まずくないのはくまさんの持っているおおらかな雰囲気のせいかなと思う。
そして話し上手ではないのに、するすると次の約束をとりつけてしまうのだ。
そんなこんなで、くまさんに逢う日が続いて行った。
そのくまさんは「お嬢さんお逃げなさい」などとは言わず、
さらっと「うち、広いから、部屋がたくさんあるんだ。うちに住めば?」と言った。
程なくして、松本に引っ越してきた私は、そこからトントントーンと籍を入れ、妊娠・出産を経験し、
今では一児の母なのだから不思議なものである。
流れるプールのように…と思っていた。どうしてこうなったのだろう?
いやこれも、流れるプールに流されている途中なのかもしれない。
ここ3年は思ったよりも流れが激しかったらしい。プールどころか渓流下りのようだった気もする。
ふふ…と笑いながら、キラキラと溢れる日差しの中、洗濯物を干す。
あの日、甘夏さんにもらったモーニングチケット。
あれは私の運命を変えるチケットだったのだ。
また甘夏さんに逢いたいなあ…と思い出し、くまさんとこぐまちゃんを連れてあのカフェを訪れる事もある。
逢えないまま、結構経ったけれど、きっとまた逢える確信がある。
そしたらあの日とは逆に、甘夏さんに伝えたい。私の3年間のストーリーを…。
国宝 松本城 北アルプスの山々を背景とした黒と白のコントラストが美しく、季節によってさまざまな表情を見せてくれる“映える”城として知られます。 天守の建物に月見櫓が接続しているという造りは松本城だけで、美しい外観だけではなく構造的にも見どころが多い城となっています。
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