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松本が生んだ前衛芸術家 草間彌生に迫る(〜渡米まで)

こんにちは。プランナー小林です。

私たちウェブエイトが拠点を置く、長野県松本市は、世界的に有名な草間彌生の生まれ故郷です。

私は、松本市美術館が開館し、その巨大なモニュメントをみたことがきっかけで、草間彌生作品の虜になりました。

ちょうど今、六本木の国立新美術館にて、彼女の個展「草間彌生 わが永遠の魂」が開催されており、先日私も行ってきました。が!チケットカウンターから長蛇の列。展示を見るもの、順番待ちの状態だったので、泣く泣く断念して帰ってきました。

今回は、そんな松本が誇るアーティスト、草間彌生についてまとめます。

波乱万丈な彼女のこれまでを一緒にみていきましょう。

いつどこで生まれたの?

・1929年長野県松本市生まれ

種苗業の家に生まれ、幼い頃から草花のスケッチをしてきたそうです。

彼女の作品には、花などの植物モチーフが多いですが、原点はこういった環境に影響されているかもしれませんね。

以前、彼女の小学生頃のスケッチを見たことがありますが、「小学生の絵」とは到底思えないほど、上手な絵だった記憶があります。

水玉模様はいつから?

・彼女が10歳の頃から。

1939年、彼女が10歳の頃、統合失調症を病んでしまい、幻覚や幻聴などの症状が襲います。

そんな苦しい症状から逃れるために、それら幻覚や幻聴を絵に書き留め始めたそうです。

最初の作品は、確か彼女の母親を描いた作品だったと思います。母親の周りに大小様々なドットが絵を埋めてつくしています。これが、草間彌生を代表する水玉・ドットの始まりと言われています。

芸術家への道のり(~渡米)

1945年、彼女が16歳の時、「第一回全信州美術展覧会」にて、その若さで入選。

この展覧会には、並み居る芸術家たちが参加していたとされるが、そこにどんなアーティストが名を連ねていたのかは、定かでありません。その後、松本高等女学校(現:松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業し、京都市立美術工芸学校(現:京都市立銅駝美術工芸高等学校)へ、4年生最終過程へ編入し日本画を学んだのち、翌年卒業しました。

1952年、彼女が23歳の時、松本市公民館で2度の個展を開きます。その後も東京で4度の個展を開き、1957年28歳の時に渡米します。ニューヨークを活動の中心とし、インスタレーション作品やハプニングと称される過激なパフォーマンスを実行、瞬く間に彼女の名は世に広まり、1960年代には「前衛の女王」と呼ばれるまでになりました。

ここまでを振り返って

1929年に長野県松本市で生まれ、幼い頃から「統合失調症」による、幻聴・幻覚に苦しめられ、その苦しみから逃れるために書き始めた、無数のドット。そのドットの数が、彼女の苦しみを表しているのだとしたら、それはとてつもないことです。だけれど、その苦しみが、半世紀以上たった今、世界中の多くのファンを魅了しています。苦しみを表現したドットは、「かわいい」とされ、彼女が現代の若者にも支持される種となりました。彼女が望んだ結果なのかは疑問ですが、それでも冒頭で書いたように、今は彼女の作品を見るために、大きな行列をなし、多くの人たちをワクワクさせていることは事実であり、大きな功績です。

次回は、彼女が渡米してから、様々なアーティストと出会い、芸術家としてさらに活躍していく人生を追っています。

小林

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