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父のクルマとの5年間
こんにちは、ウェブエイトの孫の手の石田ゆずまです。
個人的なことですが、大きな節目だったので記事に残したいと思います。

私の大好きな愛車、2013年製の「スズキソリオバンデッド」。
この度、手放して新しいクルマに乗り換えることになった。
ソリオとの出会いは、私が高校2年生のとき。我が家に、父のクルマとして迎え入れることになった。
当時、母が好きだったKAT-TUNがCMをしていたのもあったり、家族4人で乗るのにちょうど良くて、ぴったりのクルマだった。
たまに行く高校のお迎えも、休日のホームセンターへのお出かけも、東京の大学へ進学するときの引っ越しも、
私の免許をとったときに父が助手席に乗って初心者マークをつけてビクビクしながら走ったのも、
新卒のときに千葉県に配属されて鬱になって長野に帰ることになったことも、全ての側にソリオがいた。
父のクルマであるソリオ。そのまま、父親のクルマとして10年くらいしたら、乗り換えで新しいクルマになるのだろうと思っていた。
私が長野の実家で暮らすようになったとき「お父さん、新しいクルマ買ったからソリオはお前が乗ればいい」とソリオが私が運転出来るように工面してくれた。
突然譲り受けることになり、8年落ち4万キロのソリオは私が運転するクルマになった。それから、約5年間で14万キロ乗ることは誰も想像もせず。
父との衝突、物理的な拒絶。
きっかけは、当時の仕事の出張で宮城県に行ったこと。お土産で美味しい日本酒を買ってきたこと。夕飯のときに、父と飲もうとしたけど、上手く対話が出来なかった。
些細なすれ違いが口論になり、警察が家にくるくらいの衝突になり、私は、閉鎖病棟に入院することになり、父は私を拒み、母も体調を崩した。家族が壊れた。
私は、実家に帰ることが出来ず、ホテル暮らしから安曇野のゲストハウスが受け入れ先となり療養生活が始まった。
父の携帯電話へ連絡をしても親戚から折り返し連絡がきた。「親戚経由で連絡をしてほしい」と言われた。
暮らす家も、親からの拒絶も受けたけれど、ソリオだけは、そのまま継続して乗れることになったのが、唯一の救いだった。
それが、ソリオであり、私はソリオの名義と契約を介して、親子の繋がりを感じていた。私の中でのつっかえ棒だった。
クルマがある生活、物理的にも精神的にも、コンフォートゾーンから飛び出す瞬間。
安曇野での暮らし、滞在場所のゲストハウスはクルマが必需な場所。毎日違うゲストが当たり前のように集う暮らし。
新しい出会いが増えて、安曇野でサバイブするための心から信頼出来る仲間が増えた。そして出会った仲間の暮らす街に訪れに県外に行くようになった。
半径30kmだった私の行動範囲は、「本州は近所」になるくらいの規模感を変えてくれた。もちろん、全ての側にソリオがいた。
精神的に不安定で、家族も社会に対しても絶望していた私を、出会いと多様な価値観があることそして、世界は広いということを導いてくれた。
今の職場に出会うことが出来たのも、今ここで生かされているのも、全部全部ソリオがそこに在ることで成り立っていた。
総勢300名以上が乗車し、年間4万キロの走行距離。
新しい出会い、気の知れた仲間。知らない街から、慣れ親しんだ街。はじめましての関係でも気兼ねなく、乗せていたら、総勢300名弱の人がソリオに乗車した。
友人に会いに九州に行き、うどんを食べに香川に行き、ヒッチハイカーを拾ったら神戸にいて、仲間のクルマの整備に埼玉へ、大切な人が渡航するために成田に行った。
仲間の仕事の送り迎えで自分の仕事終わりに夜中に東京へ隔週行き、失恋した幼馴染を慰めに茨城に通い、クルマを運転できない事情の方を秘境の神社へも連れてった。
多くの人が助手席で笑い、「落ち着く」と言い、時には泣き叫び、様々な言語で言葉を交わした。それが私にとって幸せであり生きがいで尊い時間だった。
安心できる家がなく、落ち着く場所、自分の居場所がここだった。いつしか、父から受け継いだクルマから、私が必要とするかけがいのない相棒の存在になっていた。
突然のお別れ宣告、諸行無常。
年4万キロなので、1.5ヶ月に一度オイル交換へ行く生活。クルマ屋さんはドン引きで、いつも「早いですね」と渋々言いながらオイル交換を引き受けてくれた。
2025年の10月、関西から帰ってきて、いつも通りのオイル交換で整備士に言われた一言。
「オイル漏れしてます。次の車検通らないっすね。次のクルマを考えたほうがいいっすね」
薄々感じていたが見て見ぬふりをしていたソリオの不調、諸行無常。ソリオを手放す瞬間のときがきた。
ただの道具としての役割を超えて、私の相棒であり、父との唯一の繋がりである存在。そして、どんなときも全ての側にいてくれたソリオへ。
最後の旅、東北一周。
元々、北海道へソリオで行こうと計画をしていた。私の20代最後の放浪の旅。腹を括る旅。そして、突然追加された、ソリオとの最後の旅。
3週間くらいかけて行こうとしたが、結果は10日間くらい。北海道は行かず、青森県で引き返すことにした。
東北全県を巡る、全て下道の旅。毎日毎時間毎分毎秒。この14万キロを一緒に駆け抜けた思いを噛み締めながら走り抜いた。
この旅でも、何人の人をクルマに乗せて、すごく大事な時間を一緒に過ごした。全ての側にソリオがいるこの時間も最後になった。
フリーター、新しいクルマを買う。
安曇野で暮らす仲間がお世話になっている、とても信頼出来る中古車屋さん。
今の支払える予算と希望条件、現状のクルマへの思い。全部聞いてもらった上で、次の日には、条件に合うクルマが出てきた。
働くことが困難でどうしようもなかったけれども、5年間同じ職場で働き続けることができたり、お陰さまで成り立っている今の暮らし。
社会的には弱者な立場だけど、自信を持って「このクルマにします」と納得してクルマを買うことにした。
そして、次のクルマへソリオで大切につけていたパーツを受け継げることになった。少ないけど、引き継げるパーツがあることは救いだった。
「本当の本当はどう?」と自分に問いかけた時、様々なことを過ったが「マニュアル車に乗った人生で在りたい」が選択の決め手になった。
拒絶されている父へ感謝の手紙を書く。
「約5年間ソリオに乗る機会をもらい本当にありがとうございました。
4年半前のことがあり、お母さんが、私とお父さんを会わないように動き、お父さんは、私のことを拒絶し、私は生きていく力を失いました。
けれども、ソリオだけは乗れるようにし続けてもらえたことが、紛れもなくこの街で生き延びることができたことであり、
ソリオの存在が、どうしようもない私を回復させるためのつっかい棒でした。本当に本当に感謝をしています。(一部抜粋)」
私が私を取り戻すためのつっかえ棒はもう必要ない。この手紙を捨てられたっていい。
私が前に進むために必要な行為で、ソリオを乗せてくれたことへの感謝を伝えたかった。
どう解釈するかは、人それぞれだけど、私がそうしたかったから伝えることにした。
お別れのとき。
ソリオとの最後の日。私は個人で依頼された出張授業、制作、会社の仕事で忙しい日だった。束の間の時間で、ソリオを中古屋さんへ引き渡した。
営業の方は書類の関係で父と会っていたが「お父さん、すごくゆずまさん思いで”新しいクルマもよろしくお願いします”と言っていましたよ」と。
もしかしたら、5年間の家族の関係は近しい関係だからこそ、甘えと尊厳が壊れて対話が出来ず、5年間の拒絶に繋がったのかもしれないが、
もっと、距離感と対話とリスペクトがあれば、上手くいっていたのかもしれない。かもしれないけど、これが今の私の生きる道。もうここでソリオとはお別れのとき。
ありがとう、ソリオ。ありがとう、乗せてくれた家族。ありがとう、私の関わってくれた仲間たち。
ずっと側にいてくれたソリオは、保険を使う事故も、大きな傷もなく、18万キロでナンバーを外され廃車になりました。さよなら!
