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プールの中が、私が私を取り戻す時間。
こんにちは、ウェブエイトの孫の手(と呼ばれたい!)、石田ゆずまです。
今日は海の日。
海には多くの人が川にも多くの人がいることでしょう。
私が通っているプールにも連日の規制の
ロープが貼られるほどの賑わいです。
私は、この2ヶ月間
ほぼ毎日プールに行っているので、
どんどんプールが賑わっていく様子を肌感で感じていました。
自分への性別違和を覚えてからプールへ16年間行くことができなかった。
けして、泳ぐことが嫌いだったわけではありません。
むしろ、幼稚園から小学校6年生まで、
7年間プール教室に通っていたくらいに
泳ぐことへの抵抗感はなかったのです。
水の中に入ること自体は、むしろ好きだったと思います。
でも、「プール」という場所は、水に入ること以上に、
「見られること」「分けられること」が強く求められる空間です。
水着、更衣室、男女別──
そのすべてが、思春期の第二次性徴を向かえると
苦しい現実へと変わっていきました。
私は、男女どちらとも思っていない
「Xジェンダー(ノンバイナリー)」という
セクシュアリティを自認しています。
「トランスジェンダー(身体の性と心の性が不一致である)」
という言葉で説明することもできるけれど、簡単には説明できません。
心と身体の感覚が一致していない。
でも、自分が何者なのかをはっきり言える言葉もない。
それでも、「決められた枠のどちらか」に押し込められることが
心のそこから違和感を覚えて過ごしています。
中学に上がり、泳げるのにプールには
入らない選択をするようになりました。
高校に上がると、プールがない学校だったのもあり
物理的にプールには行かなくなりました。
大学、社会人と年齢を重ねても、
プールという存在そのものから距離を取り過ごしていました。
シェアハウスに暮らす住民が言った「プールに行けば?」の一言。
ある日の出来事、
シェアハウスで一緒に暮らしている住民の子どもと話していたとき、
住民の子どもが
「最近やりたいことないの?」
と聞いてきました。私はこう返しました。
「最近、運動不足でさ、ジムに通うのもお金がかかるから何かないか探しているんだよね」
住民の子どもは、軽くこう言った。
「プールはどう?」
その言葉を聞いて、なぜか私は抵抗を感じませんでした。
あまりにさりげなかったからかもしれません。
そこに「性別」の前提がなかったからかもしれません。
私の過去や苦しみを、住民の子どもは知らない。
知らないからこそ、ただ「選択肢のひとつ」として
プールを差し出してきたんだと思います。
その“知らなさ”が、今の私にはちょうどよかった。
「それ、ありかも」自分でも驚くくらい自然に、そう思えました。
その足で、スポーツ用品店に足を運び、
そのままその日のうちに16年ぶりにプールに行くことにしました。
16年ぶりにプールに入る。
「どう泳ぐんだっけ?」
「周りの人が私の醜い身体を見ているのではないか?」
「あーソワソワするなあ」
最初は、やっぱり身体の感覚がわからなかったし、
周りの目が凄く気になりましたが、
周りの人は、自分の泳ぎに集中しているか、
周りの人と楽しんでいるようで、全く私には目もくれません。
着水をすると、もうプールの中では、
自分が男性なのか女性なのか、それ以外なのかよりも、
私を覆うプールの水面が守ってくれることのようで、
全てはどうでもよくなりました。
泳いでいる人たちは、私が誰なのか、何者なのかを気にしていない。
彼らはただ、自分の動きや呼吸に集中しているだけです。
誰からもジャッジされることがなく、そこには“社会の目”がない。
そんなプールの中が「私を私に取り戻してくれる居場所」になっていきました。
運動不足解消のために行った先の場所が、
運動をする場所ではないという矛盾。
けれども、「運動をしなければ・・・・!」と
強い意志はすぐに変わってしまうけれども、
私が「存在を味わっている」と気づくと
それは、強い意志ではなく、安らぎの場所へと変わっていきます。
無駄ではなかった16年間。
プールに行けなかった16年間は、ムダではなかったと思います。
行けなかったのには、それだけの理由があって、
「逃げていた」のではなく、「守っていた」のだと思います。
過去の自分を否定する必要はないし、
私が私の身体の性別に違和感を覚え続けていることも本当のこと。
でも今、こうして水に入れる自分がいることも、また確かなことです。
一人でプールに入ることが、
誰かに「あなたはこう見えるから、こうでしょ?」と、
決められない関係性のなかで、私は自由になっていきます。
知られていないからこそ、傷つかずに選べたことがある。
今、私はほとんど毎日プールへ行きます。
水の中で、体と心がぴたりと重なる時間を味わうために。
誰にもジャッジされない、誰にも定義されない時間。
私が私でいられる、かけがえのない場所。
プールは、もう「怖い場所」ではなく。
私が私を取り戻す時間として、通うのです。